「目から鱗が落ちる」は新約聖書(※使徒行伝・第九章にある一節)が元であることを知ってまさに目から鱗です。キリスト教徒を迫害していたサウロ(のちのパウロ)は天からの神の光に照らされ、神の声を聞く。この時強い光で失明してしまう。イエスの使いがサウロを訪ね祈ると、目から鱗のようなものが落ちて彼は視力を取り戻した。サウロは自分の罪と神の赦しに気づき回心し、キリストの教えを宣べ伝える者になった。─だいぶ簡約─目を覆い視界を曇らせる鱗が落ちる。「あることをきっかけとして急に物事の真相や本質が分かるようになること」なのだそうだ。かわいそうという言葉はあまり良くない気がするのだけどつい使ってしまう。「子どもたちがかわいそう」と言われるのも好きではなかった。私は、「親がちゃんと笑っていられないことは子どもにとって良くない」という考えで離婚したけど、父親がいないことや金銭的に余裕のない方がかわいそうである、と言う人もいる。当事者でないとわからないこと、元々考えの違うこと、物事は単純ではないし正解なんてきっとなくて、でも「こうあるべき」と思えば思うほどそれを忘れてしまいがち。私は、踊るように歩く彼女が不幸だと決めつけた訳ではなかったが、健常者中心の世界で生きていくのは大変だろうと思った。隣を歩くタイ人は、彼女の将来を想ってかわいそうだと言った。タイ人らしい慈悲の心だと思ったし、同時に自分が少し恥ずかしくもなった。どちらかが正しい訳ではない。同じ景色を見ていたって同じように見えているとは限らない。想像をすることで、そこに在る世界も、他者との接し方も変わってくる気がする。想像してみよう、と思うだけでも違うのではないだろうか。タイに来て、日本で生きていた時は考えもしなかったことに気づいたり考えたりするようになった。色んな人がいて色んな考え方や生き方があってそれが当たり前なのだと、頭でわかっていたつもりでわかっていなかったように思う。物事の表面だけを見ていないか。誰かの言動の一面だけを切り取って決めつけていないか。自分の正義を押し付けていないか。問題があるのは、自分の方ではないか。何か事情があるのかもしれないという、ほんの少しの想像力で自分の周りの世界が変わる気がする。実際、子どもへの言葉選びや接し方も変わった。私は全く以て善人などではないけれど、だからこそ自分を好きになるためにも想像することを心掛けていきたいし、やっぱりタイに来れてよかったなぁって思うんだよね。「ゆるぬりタイランド」全話一覧ページは↑バナーをクリック!➡「ゆるぬりタイランド」次のエピソードはこちら